2006.  1. 15.の説教より

「 不従順と信仰 」
ヘブライ人への手紙 3章1−19節

 この3章は、二つの部分からなっていると言われています。前半は、1節から6節までのところとなりますが、「神の家」ということが中心に語られています。それに対して、後半は、この3章だけでなく、4章までとなりますが、神様の安息、休息に入ることと、そのために注意しなければならないことが語られています。それら二つのことが語られるにあたって、1節ですが、「だから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち、わたしたちが公に言い表している使者であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい。」と呼びかけられています。この呼びかけというのが、わたしたちにとっても非常に重要なことではないかと思われるのです。まず、その呼びかけの最初の言葉、「だから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち」ということですが、まさに、わたしたちが信仰を持つ者としてあるというのは、「天の召し」があったからこそと言うことができるからです。わたしたちが、他の人よりも立派だから、信仰心が篤かったからというのではないのです。たとえば、旧約聖書の出エジプト記3章10節ですが、燃え不思議な柴の中から、「今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」と呼びかける神様の言葉を聞いて、モーセは、イスラエルの人たちを奴隷の状態から救い出す者として立てられることとなったのでした。呼びかけられることによって、その務めについたわけです。そのように、モーセほどの大きな使命にというわけではないかも、わたしたちも大なり小なりその務めを、その与えられているところにおいて果たすために、神様から呼びかけられ、信仰を持つ者としてあると言えるのではないかと思われるのです。ただ、どうしても、わたしたちは、わたしたちに呼びかけられ、わたしたちを召された方にではなく、わたしたち自身の力や能力に、さらには、今、自分がおかれている状況にばかり目を向けてしまい、わたしには、それだけの力がないから、能力がないから、さらには、とてもそれだけのことをすることができる状況にないから、ということを言うことになってしまっているのではないかと思われるのです。当然、そのようなあり方を、神様の御前にしてしまうというのは、わたしたちにとっては、信仰を持つものとしては、好ましいことではないわけですが、そうのようことを言ったり、考えてしまうというのは、わたしたちにとっては、ごく自然な感覚ということも言えるのかもしれません。なんと言いましても、先ほどのモーセのような人物であっても、神様からの呼びかけの言葉を聞いたときに、このような言葉を、神様に対して言うということをしているのです。「モーセは神に言った。『わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。』」「わたしは何者でしょう」とです。つまり、モーセは、自分には、そのような資格はない、そのような能力などない、と言っているわけです。確かに、ただ一人、イスラエルの人たちを奴隷の状態から助け出すために、立ち上がらなければならないというのは、誰が考えてみましても、あまりにも重い、重すぎると言わざるを得ない務めですので、自分には、そのような資格はない、そのような能力などない、と言ってしまうというのも、無理からぬことではないかと考えられるのです。しかし、神様は、そういうふうに言って尻込みするモーセに対して、こう言ったというのです。「神は言われた。『わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える。』」「わたしは必ずあなたと共にいる。」とです。それで、モーセは、神様の呼びかけに応えて、イスラエルの人たちを助け出すために立ったか、決意をしたかと言いますと、そうではなかったことを、1章後の4章10節以下において見ることができます。「それでもなお、モーセは主に言った。『ああ、主よ。わたしはもともと弁が立つ方ではありません。あなたが僕にお言葉をかけてくださった今でもやはりそうです。全くわたしは口が重く、舌の重い者なのです。』主は彼に言われた。『一体、誰が人間に口を与えたのか。一体、誰が口を利けないようにし、耳を聞こえないようにし、目を見えるようにし、また見えなくするのか。主なるわたしではないか。さあ、行くがよい。このわたしがあなたの口と共にあって、あなたが語るべきことを教えよう。』モーセは、なおも言った。『ああ主よ。どうぞ、だれかほかの人を見つけてお遣わしください。』」と言ったというのです。神様が「わたしは必ずあなたと共にいる。」「このわたしがあなたの口と共にあって、あなたが語るべきことを教えよう。」と言ってくださっただけではだめだったのです。それぐら、わたしたちにとっては、目の前の現実というのは、非常に重いということです。そのようにモーセがあまりにも、尻込みするものですから、さすがの神様も怒りを発して、このように言われたことがその後の14節に出てきます。「主はついに、モーセに向かって怒りを発して言われた。『あなたにはレビ人アロンという兄弟がいるではないか。わたしは彼が雄弁なことを知っている。その彼が今、あなたに会おうとして、こちらに向かっている。あなたに会ったら、心から喜ぶであろう。彼によく話し、語るべき言葉を彼の口に託すがよい。わたしはあなたの口と共にあり、また彼の口と共にあって、あなたたちのなすべきことを教えよう。彼はあなたに代わって民に語る。彼はあなたの口となり、あなたは彼に対して神の代わりとなる。あなたはこの杖を手に取って、しるしを行うがよい。』」とです。このところを見ていただいてもわかりますように、神様は、ついに怒りを発してとはありますが、モーセが、「ああ、主よ。わたしはもともと弁が立つ方ではありません。あなたが僕にお言葉をかけてくださった今でもやはりそうです。全くわたしは口が重く、舌の重い者なのです。」「ああ主よ。どうぞ、だれかほかの人を見つけてお遣わしください。」と言って、誰か代わりの人をわたしの代わりに立ててくださいと言った要求に、まさに沿うかたちでモーセをその務めにつけようとされているわけです。神様のほうが、どこまでも尻込みして、呼びかけに応えようとしないモーセに妥協されるかのように、歩み寄られているのです。そのように、なかなか神様の呼びかけに応えようとしなかったモーセではありましたが、その後のモーセの働きはと言えば、イスラエルの人たちにとりましては、大きな転機ともなる働きをすることとなったのでした。その働きなどを見ますと、「口が重く、舌の重い」モーセに代わって語る者として立てられたはずの兄弟のアロンが語っているところはほとんど見受けられず、モーセが語っているところばかりが、それも大胆に語っているところばかりが聖書においては見受けられるということになっているわけです。そのように、しぶしぶ神様の呼びかけに応えるということでも良いのかもしれません。とにかく、どういうかたちであれ、神様の呼びかけに応えるかどうかが、わたしたちにとっては大切なわけです。
 ところで、「天の召しにあずかっている」という場合の「召し」ということですが、この「召し」というのは、言語的には、「呼ぶ」という動詞からきている言葉だとされています。まさに、「神様が呼んでいる」という意味合いの言葉だということです。当然のことながら、呼ぶからには、目的があるわけです。神様のご用につかせるために、神様はわたしたちを呼ばれるわけです。そうした神様の呼びかけに対して、モーセではありませんが、口下手だということを、さらには、何らかの能力の、力の足りなさを理由にして、応えようとはしないというのは、わたしたちにとって、相応しいことではないことはないのではないでしょうか。神様は、わたしたちが足りなさを感じていることに対して、「このわたしがあなたの口と共にあって、あなたが語るべきことを教えよう。」と言ってくださっているように、神様は、必ずや、わたしたちが足りなさを感じていること共にあって、助けてくださると言ってくださるのではないかと思われるのです。とにかく、神様が、わたしたちを必要とされているからこそ、信仰へと導いてくださったのですから、わたしたちが自分の、あるいは自分たちの能力をあれこれ考えて、どうせだめだとか、わたしたちにはできないとか言っていることなど、相応しい在り方とは言えないのではないかと思われるのです。なんと言いましても、神様が、わたしたちが足りなさを感じていることと共にあって助けてくださるというのだからです。確かに、そうは言いましても、自分の、自分たちの能力や力を考えないということはなかなかできないことではありますが、自分たちの、自分の能力や力を考えるがために、何もできなくなっていることがあるとしますならば、あえて自分たちの、自分の能力や力を考えないで、わたしたちの足りないと共にあってくださる神様にこそ望みをおいて踏み出してみることがあっても良いのではないかと思われるのです。